半鐘の半死半生

社会に警鐘を鳴らす…わけもなく。

景観訴訟

この分野に詳しいわけではありません。
なら黙ってろ、と言われそうですが、自分の見立てが世間的にはどう見えるのかな、という興味もあり、さらしてみます。


法律の規制のないところでは、“自由”が原則であると思っています。
あるいは、法律の規制の範囲内においては“自由”であるというか。

だから、敷地に廃品を積み上げることも、奇抜な色彩の建物を建てることもできる。
道路を造ったり橋を架けたりするのも、そうした“自由”のひとつと思います。

反面、“自由”であっては困るのであれば、何らかの規制を“使う”ことになります。
使える規制がなければ、新たに立法することもあるでしょう。

さて、景観については、景観法ができました。
景観法では、景観に価値を認める一方、実際に規制するに当たっては計画前置です。計画を通じて規制対象にする。財産に関する自由を一部制限しようというのですから、手続的にはそうなるでしょう。
この結果、計画のあるところでは保護が図られるわけですが、計画のないところではあいかわらず“自由”です。
とするならば、景観の享受については、前者においては具体的利益、後者においては反射的利益ではないかと思うわけです。
すなわち、景観法が制定されたからといって権利利益が直ちに具体的に認められるのではなく、景観計画が策定されている場合において、その計画の範囲内で認められるということになります。(現行法では、ここまでということ。べき論は、また別です。)

鞆の浦の判決では、景観の享受をかなり具体的に認めたようです。
しかし、以上のような解釈からすると、認めすぎの感があります。
司法の判断に異議を唱えようというものではありません。ただ、原告よりの地裁判決が高裁で見事なまでに否定される例もあるので、自分の見立てを念頭に置きつつ、今後どうなるのかなと注目するところです。

なお、現行法のもとでも権利利益が認められるとすれば、景観計画に着手したとすれば策定されたであろうという蓋然性でしょうか。折りしも、福山市では策定中ということのようですが…
(もっとも地元は生活重視が優勢らしいのでどうなることか…。当事者たちが保護を選択しなかったならば、非当事者が国民的財産と主張して彼らの財産権を制約することは、景観法が相当強化されないと、無理があるのではと思います。)

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