半鐘の半死半生

社会に警鐘を鳴らす…わけもなく。

街場のメディア論

『街場のメディア論』(内田樹、光文社新書)読了…から、もう一月経っちゃった。

旧来のメディア、特に新聞は、自らを価値あるものとして宣伝することに必死です。
NIEとか、もうね。
メディアリテラシーの第一歩は、「新聞を疑う」ということなのに。
また、旧来メディアがする批判の薄っぺらさには、怒りを覚えるレベルです。
特にテレビがひどい。
ちょっと下調べをしたらそういう言葉は出ないだろう、というようなレベルの批判を平気でする。

私自身は、そのような認識に至っておりますので、本書が語るメディアの劣化ぶりや、その見立てには、いちいち首肯するところです。
そしてこれが、メディアだけが劣化しているのではなく、現代人の変質と無縁ではないとつながるところが、内田節の魅力です。
なお、授業のテープ起こしに加筆ということですが、こんな授業なら、受けてみたい。学生さんたちがウラヤマスィ。


さて。
メディアの凋落の要因として、自己批判性の欠如が挙げられるが、その根底には、メディアの存在が既定であり、自己の存在を疑わないことがあるとの見方。

「テレビはあって当たり前」だと、たぶん彼らは思っている。テレビが存続しなければならないこことの挙証責任は自分たちにはないと思っている。
(略)彼らがものごころついたときにはすでに存在したものについて、「それはなんのために存在するのか? 存続する甲斐のあるものなのか? 存続させるとしたら、どのような手立てを尽くすべきなのか?」というラディカルな問いがありうるということを、当事者たちはたぶん知らない。あるいは知っているけれど、知らないふりをしている。-p.47

これは、お役所・公務員に関しても共通するのではないかな。こういうラディカルな問いにさらしてみなければ、新しい考え方は出てこない気がします。(議会とか、都道府県とか。)

メディアの「暴走」というのは、別にとりわけ邪悪なジャーナリストがいるとか、悪辣なデマゴーグにメディアが翻弄されているとかいうことではありません。そこで語られることについて、最終的な責任を引き受ける生身の個人がいない、「自立した個人による制御が及んでいない」ことの帰結だと僕は思います。-p.94

こっちは、お役所の政策の「責任の所在が不明」に通じるかな。
う、まずい、メディアの劣化ぶりを批判している場合ではない気がしてきた。


その他、医療事故を巡る報道の構造や、クレーマーとの関係、また、教育改革に加担する意味など、なるほどなあと思わされます。いろいろ紹介したいのですが、長くなるからパス。
あとは、ちょっとしたところを何点か。

著作権についても話がありますが、その中から、権利がクリエイターから遊離する件について

ジョージ・A・ロメロという映画監督をご存知ですか。『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』(Night of the Living Dead,1968)などのゾンビ映画の巨匠(というかジャンルそのものの発明者)です。
彼のゾンビ映画初期四部作は歴史的名作ですが、ロメロ自身はその続編を撮ることができません。「他人がコピーライトを持っているからその続編を撮ることができない」のだそうです。-p.140

kei-zuさん向きでしょうか。

電子書籍に対して、書棚の力について

自分の本棚は僕たちにとってのある種の「理想我」だからです。「こういう本を選択的に読んでいる人間」であると他人に思われたいという欲望が僕たちの選書を深く決定的に支配しているからです。-p.150

「いつも読むから」手元にあるんじゃないんです。「いつか読まねば」と思っているから手近に置いて、そうやってわが身を叱咤しているわけです。-p.153

あー、なんか納得(趣味全開で見せらんないけど)。蔵書欲というのはこの辺から来るのかもしれません。

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